思いあがったコンサルタントがようやく半人前になった話
久しぶりの更新となる。
私の気持ちや考え方に大きな変化、そして、大きな学びがあった。
今回は皆様にもお伝えしたいと思う。
思いあがったコンサルタントが、
ようやく半人前になるまでの
変化の道のりを。
そもそも自分をどう思っていたか
人よりも圧倒的に優秀だと思っていた。
自分の能力は磨くことなどせずとも、自分は誰にも負けないし、何か問題が発生しても他人のせいだと思っていた。何かしらのミスがあれば、他人に原因を探していた。他人の落ち度を見つける能力は、日々磨かれていたのかもしれない。
当然ではあるが、自分は優秀だから今でもなんでもできると思っていた。できないはずがないと思っていた。そして、できるのだから学ぶ必要がないとも思っていた。
自分への評価と現状の結果を比べた時、決定的な差異があることは気づいていたのだが。
叶って当然の目標がまったく近づいてこない
私は選ばれた。優秀だった。だから、何もせずとも、私の目標は必ず叶うと確信していた。
ここに落とし穴があった。
夢が必ず叶うことは間違っていないと思う。
ただ、そこには条件がある。
それは、適切に行動することだ。そして、適切に行動できない場合は、できるレベルまで成長しなくてはならない。
私は自分が優秀だと思っていて、成長など必要ないと心の底から考えていたのだ。本当に目標を叶えるのであれば、成長をしなくてはならないのに。
成長をしなくては叶わない夢を日々送り続け、私はいら立ちを隠すことができなかった。私はこんなに具体的に夢を描いているのに、どうして夢は叶わないのだと、この世を呪った。不合理に思えた。何か歯車がおかしい、ピントがずれている、トーンが外れている、そんな違和感を持ちながらも、自分に全ての原因があるとは思わなかった。
何も得られなかった一日の終わりの夕焼けは私の胸を締め付けた。そんな日々を何度も繰り返した。
何のために働いているかを気づいて、ようやく本当の自分を見つけることができた
そんな私が成長の重要性に気づいた出来事があった。
ある日、上司から評価のフィードバックがあった。
ポジティブな内容もあったが、それよりも、
何のために働いているの?成長するために働いているんじゃないの?
という言葉が心に残っていた。
最近はプロジェクトに忙殺されて、一日の終わりに夕焼けを見ると心が痛めつけられる思いだった。
今日は何を残せた。何ができた。本当にやりたいことか。
いつかこのまま、何かが胸につかえたまま、死んでいくのだろうかと。
そんな時に上記の上司のフィードバックがあった。その時は特段気にしていなかったが、あとから妙に気になって、胸の中を反芻していた。
確かに、コンサルタントとして働いているのは、自分が成長するためなのかもしれない。自分がビジネスで大きな価値を出すために。
自分に成長が必要だと気づけたもう一つの話
自分の夢を叶えるには、日々の成長が必要だと気づいたのには、もう一つ理由があった。
それは、筋トレだった。
少しとぼけた話のように聞こえるが、これはいいきっかけになった。
筋肉は何もしなくては成長しない、むしろ衰える。一日一日の積み重ねの果てに、少しずつ体が作られていくのだ。そう、自分の体を「育てていく」感覚だ。これに気づいた時、筋トレ以外にも、日々の全てにおいて、成長が必須だということに気づく。
そして、筋トレで成長することが楽しいように、日常の生活も仕事も、全てにおける成長は楽しいものだと感じるようになった。
今できないことは恥ずかしいことか
私は、できていない、と指摘をされると、できていなくても当然である正統な理由を探す。そして、必死に、
私は悪くない、私の能力は、やはり正しい
と主張をすることに躍起になった。
だが、そもそも今できないことは恥ずかしいことではない。
何故なら、「できる」こととは、
・脳で理解して
・十分に反芻を繰り返し
・現実に反映できる
状態であるから、単純に経験の問題なのだ。
東大生でも、受験のためには勉強する。知らないことを初めて知り、覚え、再現する。日本の上位の脳を持っている彼らでもそうなのだ。できないことは決して悲しいことでもなんでもない。
以下は、過去に見た本の内容だ。タイトルも覚えていない。
とある実験の話だ。
Aグループには、君たちは天才だ、と固有の能力を褒めた。
Bグループには、君たちの努力が実った、と努力を褒めた。
その後、数学のテストを複数回行ったところ、Aグループの点数は落ち込み、Bグループの点数は上がっていった。
私は、能力があると育てられた。上記で言えば、Aグループだ。そして、心も弱かったから、自分の優秀さにすがり、自分をなんとか守り続けた。自分の存在意義を求めていた。こんなに能力がある自分は存在していても大丈夫だと。存在していてもいいのだと、自分を守り続けた。誰も否定しないことを、必死に守り続けた。いや。必死に守っているつもりが、一番追いつめていたのは自分だったのかもしれない。
今の私にできること
成長して、「育てた」自分を全力で動かすことだ。自分が思うままでいい。理想を待つのではなく、自分で近づいて行く、作っていくのだ。そこに至るまでに、様々な相違工夫が必要になる。
ただ、その過程で失敗しても、自分を責める必要はない。失敗は、自分育てる過程の出来事でしかない。もう一度自分を育てればいいのだ。人生は自分という育成ゲームなのかもしれない。
そして、もう一つ気を付けるべきは、全力でやることだ。これは、時間をかけるだとか、無理をすることではない。こだわることだ。自分の選択だと胸をはって、自慢できるくらいにこだわることだ。
ここまで気付けて、成長の入り口に立った私は、ようやく半人前なのだろう。これから成長して、一人前となる日まで、日々のトレーニングを楽しもうではないか。